相場戦略研究所


 山種流 相場の秘訣

  私の夢は、はじめはほんとに小さいものだった。何とか郷里の借金を返すことだけが願いであった。 それが、どんどん大きくなっていったのである。考えてみると、手はじめの相場でうまくいかなかったのが よかったのかもしれない。この時の様子は梅原の加藤さんとの出合いの時に書いておいた。 いかに相場がむずかしいものか、そして失敗した時のおそろしさを心底、身にしみて感じ、肝に命じたためでもあろう。

以後、「儲けた金には損がついて回る。貯めた金には信用がつく」との信念を貫きとおした。

  一夜成金、一夜乞食と言われた相場の世界、それは戦後、とくに現在の株式相場における相場とは いささかおもむきがちがう。米の清算取り引き、蛎殻町界わいでは合百(ごうひゃく)と呼ばれる一種のあてっこや、 薄張り(規定の証拠金よりずっと少ないお金で相場を張ること)が横行していた。

クロウト筋は呑み屋として、 小口の投機好きなお客に向かった。それで、商売はうまくいっていた。つまり、一回や二回は負けても、 ちょっと長い間、相場をやっていると結局お客が失敗するからである。 まさに勝つか負けるか、妥協のない勝負の世界だった。

  小僧時代、深川の方に蛎殻町の気配をもったセールスマンがちょいちょいやってきた。 小僧はともかく、中僧の中には相場をはる人も結構多かった。損した話は滅多に聞かなかったが、 どうやら足を出すのが通例のようだった。うまい話はないものである。

そうした環境にあって、私は立派な先生方に恵まれた。第一が、私の主人、先代の山崎繁次郎さんだった。 山繁さんについては前に述べたが、ここであらためて考え直してみると、私の商売は大体において、 この成功者の守った道を踏襲したものであった。自分のすぐそばに、生きた立派な見本があったからである。

  山繁さんの店では回米問屋といっても、自分の店では買い持ちをせず、 すべて産地からの委託米の売りさばきに徹していた。手数料は小さい。相場の儲けは大きい。 だが、相場は張らなかった。今でいうならば、ディーラーはやらずブローカーであった。

それは相場で儲けると 相場で損することをよく知っており、思惑的な商売をさけたためではないかと思う。

私もこのブローカー中心の行き方にした。相場を張ったといっても、それはディーラーとして手持ちした実米を 清算市場に売りつないだのである。保険つなぎだった。

収入の基礎はブローカーによる手数料にあり、 それだけで十分に食べていかれるようにしてあった。

  その上で儲けた分を積み上げていった。毎年、年末には棚上げ貯金をした。この資金は主としてサヤトリに使った。

当限を買って、先限を売るというやり方だ。サヤトリというと馬鹿にする人もあった。

でも、日歩十銭以上、時には三十銭にも回すことも出来た。

年に三割から十割の儲けである。 銀行から資金を借りても、日歩七銭なら十分に引き合った。

これは大きい。危険の大きい相場を張るより、結果は確実なうえに、大きく儲けられる。 私にしてみれば、なぜ皆が利用しないのか不思議だった。

  もちろん、サヤトリといっても、比較的単純な当限、先限のサヤトリ、実米と清算市場の先物のサヤトリから、 さらには多角的な、複雑なものもある。例えば棉花を買って、綿糸、綿布を売る、手芒を買って、小豆を売る、 小豆を買って、砂糖を売る、米を買って、新東株を売るというようなぐあいである。

それは、常に採算からみて、割安なものを買い、割高なものを売ったのである。 実際に世の中ではそういう動きが必ず出てくるものだ。小豆が高騰すれば、お菓子屋さんでは使い切れなくなり、 代わりに手芒(つるなし隠元)を沢山使用するようになる。

小豆の実需は落ち、手芒の需要が伸びる。

当然、小豆の相場と手芒の相場の動きは逆になり、このサヤトリは成功するわけだ。 採算を買い、人気を売る。採算は実、人気は花である。

  採算に乗る、乗らないのモノサシは各人各様かもしれないが、私は私なりのものをもっており、 それでやって大勢はまちがいなかった。



 小豆相場でいえば、小豆の値段は大体、米より高い、というのが経験的にわかっている。

そこで、小豆がこの水準を割り込んできたら徐々に、静かに買い下がる。底値百日、天井三日のたとえどおり、 買ったらすぐ上がるというものではないから、辛抱がいる。ある意味儲けは、この辛抱に払われるものかもしれない。

 いつしか相場が回復し、割高になったところで売りはじめる。 買いの逆で、扇型に、どんどん玉数をふやしながら売り上がる。前もって仕込んでおいた実物を見合いにした売りである。

そして、各業者から出てくる買いの手口を調べる。人気化する動きを読むわけである。

小口の買いが次第にふえてくる。そこで、こんどはカラを売りはじめる。静かに、売り上がる。

そのうち、小口のカラ売りがふみに入る。そこへ、売りをぶつけていく。

 大体、大きく売るためには相場が上げているうちでなければ出来ない。売りには買いと同じく辛抱も必要だが、 強い信念がなければ成功しない。ある日、何かのキッカケで反発する。 その反発ぶりをみて、二番天井とみきわめれば、追撃売りに入る。ここからの儲けが大きくなる。

  ふつう、売り建てがあって、相場が下げに入れば、それまでの売り玉の儲けで満足してしまう人も多い。 しかし、それは序の口、追撃売りの方がむしろ大きくなることもある。相場の流れは変わってしまっているのだから、 安全だし、しかも相場は下へ行きすぎるのも常である。

もうける時には、よくハラ八分目とか、頭と尻尾は人にやれ、という戒めがある。が、チャンスは徹底的に生かすべきだ。 いささか執念ぶかいところは巳年生まれのもつ性格かもしれない。



  ただし、相場に外れた時は早く降りるのがコツである。「離(はなれ)」である。 よく、株で損をすると、この株にやられたんだから、同じ株でとり戻そうとする人がいる。 あるいは、株の損は株のもうけで埋めようとする人も多い。 しかし、それは失敗しやすい。
損の上ぬりである。
 一つには、心理的に負けてしまっているため、 冷静な判断が出来なくなっているためだ。意地では成功するはずがない。 私は必ずしもこだわらない。
 損は「とりあえず取引所に預けたんだ」と考える。積んでおけばいつか下ろすことになる。 つまり、勉強代と考えるのだ。 とりあえず休む。

  実を言えば、このコツは軍隊時代に得たものである。行軍する時、休みもなしに強行軍すれば、兵はバタバタ倒れる。 たとえ、五分、十分といえども、小休止をとりさえすれば、そんなことはおこらない。「買う」「売る」「休む」である。

アメリカのウォール街でも同じことが格言として言われているという。 「休む」、この時が肝心である。熱くなっている頭を冷やすのである。 そして、相場を張る時に、サヤトリを多角的にやるように、金もうけも多角的にやればよい。たとえば、株式で損をしても、 小豆、生糸、人絹など他の相場でもうかっていれば、それでよい。いや、なにも相場にかぎることはない。 土地、あるいは絵画、骨董、財産がふえていればそれでもよい。

一つの勝負に熱をあげるあまり、肝心な儲けをおろそかにしてしまうのは困る。 要はゆとりをもって、眼をひろく、頭はやわらかに、というのが、一番大事な心得のように思う。 まして、昨今のように、国際化が進み、日本の株だけでなく、ニューヨークだろうが、ロンドンだろうが、 世界中どこでも好きな株が買えるようになっているだけに、なおさらである。

  よく、株価の見通しが百発百中なら大きな財産を作れると思う人が多い。

たしかに、ひとつ、ひとつの株について、上げ、下げをピタリと当てられれば、そうなるようにも思える。
しかし、それは錬金術に似て至難のワザである。この私はもちろんのこと、 古今東西を通じ、そういう人はまずいないだろう。
そして、株価の見通しがうまい人必ずしも、儲け大ならずである。ここが、相場のむずかしさであり、面白さでもある。
株価予測の名人はえてして、見通しが当たることに無常の喜びを感じ、例えば、十銘柄について七つとか、八つとか
的中したということだけで満足してしまう傾向があるのではないだろうか。

  しかし、財産を増やすとなると、ややおもむきがちがってくる。どれだけ儲かるかである。
その場合、数多く銘柄を当てるより、一つでもよいから資金を効率的に運用することだ。
見方によっては、あまり多くの銘柄を売り買いすると、自然に注意が行き届かなくなり危険も大きくなり勝ちだ。
十銘柄に投資して、九銘柄が成功、あるいは十回やって、九回うまくいったとしても、
たった一銘柄、たった一回の失敗により、全部のもうけを飛ばしてしまい、逆に足を出すなんていうことも少なくない。

  まして、五十、百などと数多く投資する場合になれば大変だ。分散すれば危険も少なくなるという見方も あるようだが、そうはいかない。そのよい例が、日本の投資信託ではあるまいか。いろいろ事情もあろう。
しかし、三十ぐらいの銘柄にしぼって運用している外国の日本株専門投資信託が 比べものにならぬ成績をあげているのをみれば、何となく、わかるではないか。
いくらすぐれた専門家が数多く集まり、コンピューターを駆使したところで、やはり限界があるように思う。 九回の成功を一回の失敗が帳消しにしてしまう、これこそが相場実戦の真の姿であろう。

とどのつまり、相場で成功する初歩的な、そしてもっとも確実なコツは、相場の大きな流れを知ることにある。

それが、勝機をつかむことである。

  下げから上げに変わる。その時機に買って出れば、あるいは逆に上げから下げに変わった時、 すかさず売って出れば、どんな未熟な人であろうと、資金が少なかろうと、多少銘柄の選択をあやまったとしても、 もうけの大小は別にして、必ず成功するといってまちがいない。

最近の例では、昭和四十年がそうだった。利回り五分、二百五十円スレスレまで売りこまれたソニーを買っておけば、 今や五千円をこえ、その間に二割の無償を二回、二割五分の無償を一回もらっているので、実に三九倍にもなった。 ソニーでなくても、鉄鋼株だってもうかった。あの当時の単純平均が八十五円、今は二百円台を突破している。

昭和四十六年秋のポンド・ショックの時も、そして近くは、四十六年暮の円切り上げの時も、そうである。 流れが下向きから上向きに変わったのである。それをつかめば、文句なしだ。

  ところが、相場が上昇しつづけてくると、買いたくなるのが人情だが、買いは次第にむずかしくなる。 それは、誰が考えても、値上がりするのが当然な銘柄から先に値上がりしてしまうからである。

資産内容、収益力、成長性、そして利回りにも乗るようなものである。

いきおい、利回りには乗らないが、 近く増資がある、あるいは利益が大幅に伸びるからとか、新製品、新技術の開発に成功したとか、 さらには大きな仕手が手を伸ばしているといったような理屈をつけて不確定な期待感に頼るようになる。

欠点はあるが、よい点もあるという考え方だ。
そこへ人気が加わってくる。株価は派手に動き出す。ついついそこへ乗る。

危険がどんどん増していることには気がつかない。
ここまでくると、いかにすばらしい相場の名手であろうと、はずれる可能性が高まるのは至極当たり前である。

ほんとうは次の機会をじっと待つべきなのである。   しかし、人間は弱い。危ないと思いつつ、引きずられる。

このへんで、戦線を縮小しようとしながら 出来なくなってしまう。
この見切りが、相場に勝つか、負けるかの分かれ目である。

先日も、うちの調査の若い人が私に聞いた。 「世の中で、あの相場で儲けた、この銘柄で大儲けしたとの話はよく聞きます。 でも、財をなし、最後までうまくいった話はあまりありませんが、それはどうしてですか」と。

私は「人間の欲には際限がないからだよ」と答えておいた。 彼は、何かわかったようなわからないような顔をしていた。
このことは古いようだが”利食い千人力”の一言にも、示されている。
あとから考えてみれば、なぜあそこでとめておかなかったかと思うが、 その場になるとつい落ちこむ落とし穴だ。

そして、何べんくり返しても、また誘いこまれてしまう。人間の弱さという他はない。
(そろばん 山種一代記より) 
  



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