山岡鉄舟の開眼
2008/5/7(水) 午後 7:04
ある日、かつて剣術の弟子だった横浜の豪商、平沼専蔵が鉄舟のもとに遊びにきた。
専蔵はいう
「先生、私はいままで世渡りをしてきて、
剣術の駆引きも、商売の呼吸も、同じことだとわかりました。
私がここまで漕ぎつけたのは、先生に教えていただいた剣術のおかげでございますよ。
手前がはじめて舶来物を仕入れたとき、元手はわずか五百両で、それも長い間の苦労のあげく貯めた金でござんした。
運試しで仕入れた品が下向きと聞いて、急いで売ろうとすると、
弱みにつけこんだ仲間が叩くので、捨てばちになって放っておくと、
今度は仲間が元値の一割高で買おうといって参りました。
そうなれば強気になり、売らずにいると一割五分高で買おうと言って参ります。」
「それで売ったのか」
「いえ、欲に目が眩み強気でいるうちに、相場が崩れ、とうとう二割あまりも損をいたしました。
私は損をして、はじめて商内の呼吸というものがわかりました。
儲けようと思えば心はたかぶり焦ります。損をしたくないと思えば身が縮まります。
つまるところ、損得を頭におくようでは、大きな商内はできぬ、と覚ったのです。
そこで先生に教わった道歌(柳生石舟斎の口伝)を思いだしました。
『切りむすぶ太刀の下こそ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』
という歌のとおり、以後は自分が冷静な時に確り思い極めておき、
相場動向や人気に左右されず、冷静な時に決めたところで欲を出さずに売りさばくことといたしました。
幾度か大失敗もいたしましたが、そのため今の身代になれたのでございます」
鉄舟は専蔵の言葉に落雷にうたれたような衝撃をうけ、文久三年より十七年間の迷いが一気に醒めた気がした。
心気を統一すること五日「天地の間に一物もなき」心境に達し、傍らの木太刀を取りかまえてみて心を躍らせた。
十七年間、剣を構えれば必ず前面に山のようにあらわれ動かなかった浅利又七郎の幻影が消えうせていたのである。
(津本陽 『山岡鉄舟』より)
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